死別反応
夫と死別して現在9ヶ月目
今の状態はというと
3月に入って
今年は暖かいせいもあり
2月までとは
ほんのすこぅしだけ
気分の安定を感じ
また、歩く速度、力も
ちゃんと歩けている感覚
これを前向きというのかどうか…
以前は、足を引きずるようにしか
歩けなくて
その「音」に反応してた
それは、夫と退院後
散歩をしていた時
同じ足音を隣で聞いていたから
あぁ、あの時こんな風にしか
歩けなかったんだな
辛かったんだな…
なのに、私は横でその音に
不安と、
そんな歩き方やめて!
早く元に元気になってよ…
って心の中で思っていた
主人のあの時の気持ちが
わかりすぎるのと
その時の自分に
なんと思いやりのない
自分勝手な思いだったんだろうって
その両方を感じて
痛みを感じてしまっていて
歩く事が辛くなっていった
特にスーパーの中
同じような足音をしてる自分が
辛過ぎて
もう二度と彼の為に
お買い物してご飯を用意する事の
楽しさを充実感を
味わえない事
それが現実として
受け入れられなかった
出来るだけ節約しようと
けれど、なるべく
体にも良いものを探そうと
ぐるぐるぐるぐる
スーパーの中を回って
足音聞いて
涙をマスクに湿らせて
歩く事しか出来なかった
今、少し違うの
スーパーは一つの気分転換
楽しみになっている
近所のスーパーは
オーガニックでもなく
添加物や大量生産のものばかりだけど
それでも買い物はやはり
目が癒える
買えなくても
なんだか
生命力を感じるんだなって
お魚、お肉、お野菜…
生きていた命が
並んでいる
それらで自分の体も
作っていけている
そんな大それた
循環に感謝するって
大袈裟でもなく
(もちろんその気持ちもあるけれど)
人がいて
活気もあって
選べる自由があって
それが
今の私は心地よさを
感じられている
素直に
ありがたいなって…
夫の残してくれたお金で
今日も食べるものが
買えたって
オーガニック食品とかで
揃えたいけど
金額が違うもの
たまにしか買えない
でもたまになら買える
今はそれで丁度いい
伴侶を失った反応は
日常まだまだ沢山出てきます
仏壇眺める時
遺品に触れる時
外で夫婦で出かけている人を見かけた時
決めなきゃならない雑事の時
1人でぼんやりしてても
ふと死別当時を思い出してしまったり
フラッシュバックが起きたり
PTSD反応の時
自助会で話した後のなんとも虚しさが湧く時
義家族との対応でわだかまりを感じる時
などなど
とにかく
何かにつけて
反応は出てしまうものなのだなって
わかりました
反応を変えようとせず
まずはその反応を面倒見てあげる事
感じてしまう自分を
感じさせてあげる事
哀しみが本丸だとしたら
その周りにいっぱい
くっついてる
さまざまな感情がある
それが一つ一つのシーンで
浮上しているんだ
その気持ちを
ただ受け止めて
わかってあげる事
そんな時期なんだなって
やっとわかった
それしないで
一人で拗ねてやさぐれて
周りに
1番大変で辛くて
可哀想な私をわかってよ!!!!
慮ってよ!!!
を腹の中でぐつぐつ
たぎらせてしまう時もある
それすらOK
人に当たってしまっても
それも仕方ない
気づいた時に
素直に謝ればいいし
ぶつけられた人が
私とは関わりたくないって
思うのも自由
嫌われても
私はその時の私の気持ちを
わかって欲しかった
思いがあったのだから
けれど、
やってみて
大事な話の時は
直接会って顔を見ながら
話した方がよいな…
という事
そして
話す相手もやはり
選ぶ必要がある
という事
コミュニケーションの基本
かもしれないけれど
こんな人生の霹靂の時は
そんなものは機能しない
私のグリーフケアは
今始まったばかり
なのだと思う
悲しむ事を許す
全ての感情が湧く事を
とにかく許す
一番辛いのは
過去どんなに
至らなかった自分を
許していく
ことかもしれない
今はまだ
なんであんな態度や思いで
接してあげなかったのか
なんでもっと寄り添って
心の内を聞いてあげなかったのか
なんでこんな生き方しか
出来なかったのか
今も出来ないのか
自己否定、自分責めが
物凄くて
けれどそれは
死別前から
抱えていたものでもある
いい加減
何も出来ない自分を
解放してやりたい
死別反応はこれまで
様々に現れてきました
少しずつ書いていこうと思います